北澤浩一師範代

様々なブログに嫌がらせを繰り返し現在休眠中の黒崎さん。
その黒崎さんに少なくない影響を与えたことで知られるコピーライターの北澤浩一さん。
そんな北澤さんは青瓶MLで次のようなコメントをしている。

青瓶 2485
     歌うこころで。
■ みなさんはじめまして。
 ISIS編集学校「月夜見按配教室」の師範代をつとめさせていただきます北澤です。
http://www.melma.com/backnumber_65121_380456/
 なぜに、月夜見であり按配であるのか。
 ということについては、月を見上げるような余白をもってこの編集稽古を続け
てゆきたい、という気分が含まれています。
 また、編集とは按配をつけることでもある。
 と、個人的には考えてもいるからです。
 
■「脇見をしてほしい学校」と、松岡校長はISIS編集学校の案内に書かれています。
 脇見、脇道。おうちがだんだん遠くなる。

 歌うこころで。余白をもって。
 幅が狭くなってしまったら、そこは流れで。
 一年という期間ですから、様々な波もあるでしょう。
 月の満ち欠けもある。
 
 始めから完全な回答などできるはずもなく、それを追うのも疲れるものです。
 稽古はリッパである必要はないんです。
 私も野暮を怖れず、じたじたと案内役をさせていただく所存です。
(ISIS編集学校「月夜見按配教室」開校の挨拶。北澤筆)
 01_01_19

また北澤さんのプロフィールには次のような記述がある。

1958年生。慶大卒。広告制作会社等を経て独立。

'97年1月より2000年10月末まで、読売新聞社のインターネットサービス yominet 「文芸フォーラム」を業務委託され執筆・運営。
作品群、「緑色の坂の道」は「yahoo! Japan」で五つ星。
松岡正剛主催「ISIS編集学校」師範代。

 
調べてみると、ISIS編集学校というのは、松岡正剛という人がネット上で開いているカルチャースクールのようなモノらしい。
公式サイト: http://es.isis.ne.jp/
 
月夜見按配教室を調べてみると、こんなページがみつかった。

師範代が考えたネーミング案をもとに、松岡校長が命名しています。
・・・・・・
月夜見按配教室  太田香保(東京)
・・・・・・

「月夜見按配教室」の隣にある「太田香保」の名前。

「太田香保」は上の写真に写っている女性の名前のようである。
この方が師範代であるとしたら、北澤さんの主張とは食い違う。
 
で、とりあえず、調べを進めてみると。
こんなページの存在を知った。

ビン・ラディンの挑戦!
『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年)のあとがきにも書いたのだけど、わたしは2001年、松岡正剛さんが主宰する編集学校に学んだ。
わたしが所属していたクラスの名前は「月夜見按配教室」
 
昨晩は、この教室の同級生たちと忘年会。
もんじゃ焼きを食べながら、ワイルドに盛り上がった(^-^)。
・・・・・・

このサイト主(森田明彦氏)が著した『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』のあとがきに、「月夜見按配教室」に関する記述があるらしい。
ということで、さっそく探し出して確認してみた。

あとがき

・・・・・・
 その頃、わたしは仕事の傍ら、松岡正剛氏が主宰する編集学校で学んでいたが、同じクラスのメンバーに対して九月十三日付で以下のメールを発信している。

・・・・・・
 松岡正剛さんが言われる『ワールドモデルが病弊している』というのも、こういう事態を表現している言葉のような気がします。
 まあ、でも、大きなパースペクティブで考えれば、そういう歴史的瞬間に立ち会えたことは、本当に幸せなことで、自分としても、日本文化と普遍的価値みたいなことを、もっと良く勉強すべきなのだろう、と思います。」
 この時に芽生えた問題意識に基づいて『ビン・ラディンの挑戦』と名付けた思想小説めいた習作を編集学校の物語編集術の課題として書き上げた。全体で三万六千字程度のこの作品デハ、ビン・ラディンが投げかける?西欧社会で生まれたナショナリズムの本質、?西欧社会で誕生した人権理念の偏向性、?一神教としてのキリスト教の問題性という三つの問いを巡ってアーネスト・ゲルナー、ジョン・ロールズ弘法大師空海が自らの意見を開陳するという形で物語が進行する。この稽古を通じてさらに広がった思想、哲学への関心が、翌年わたしに早稲田大学大学院社会科学研究科(博士後期過程)へ進学することを決心させたのだ。その意味では、松岡正剛校長先生とわたしが所属していた月夜見按配教室北澤浩一師範代太田香保師範、そしてクラスメートの川上さん、田中さん、竹川さん、西川さん、矢内さんはこの本の産みの親である。
・・・・・・

なんと、北澤浩一の名前を発見!太田さんが師範、北澤さんが師範代という関係であることが、これで確認ができた。
黒崎さんや鮫島さんのような悪質なネットゴロに影響を与えていた反面。森田さんのような極めて優秀(そう)な研究者に対しても大きな影響を与えていた北澤さん。因みに森田さんのことを若い学生さんだと勝手に思いこんでたけど、今調べたら実は1958年生まれの49歳。北澤さんとタメだったんすねw まぁどうでもいいや。
 
さて、北澤浩一さんとISIS編集学校の関係はその後どうなったのか?
少なくとも「月夜見按配教室」というイタイ名前の教室以降の関係は確認できない。
そんな中で、北澤さんのブログで興味深い記述があった。

February 15, 2005
「緑色の坂の道」vol.3004
 
       二月。
■「知の二枚目」とでもいうべき方が主催する編集の学校が、あるIT企業の子会社になった。私もその黎明期、そこのセンセだったものだから、なんとも言えない気分でいた。
 誤解を恐れずに言えば、編集というキーワードで世の中や今までの歴史そのものを再構築しようとするのは、試みとしては分かるのだが、どこか無理があったような気がしている。
 ある種衒学的な表現が、一定の階層の女性達に受けた。
 旦那は社食、奥様は美術館というような、やんごとなき高学歴の方々である。
 会合の仕切り、撮影、それをまた再利用など、アウトプットの仕方には学ぶべきものも多かったのだが、そういうものが一定部分ショッキングだったのはやはり70年代から80年代初めにかけてであろうかという気もする。
 すれっからしの男どもからすると、やや手の内が見えてしまってもいて、あざとさの手前にも見えることも、ままあった。
 さわやかに笑う姿だけではなく、原稿の山の中で憮然とした顔をしたその人の姿が一枚でもあれば、と何度か廻りに口にしたこともあるが、渦中にいると声は遠い。

要するに松岡とかいう人のことが気に入らないらしい。
まぁ人間生きていれば色々あります。
 
ドウシタラヨカトピア