Yominetとは?
北澤浩一さんのプロフィールをみると、
>読売新聞社の有料会員制インターネットサービス、yominet、
>その文芸フォーラムを業務委託され執筆・管理・運営している。
とある。
で、yominetって?という疑問のもと調べてみたのだが、
残念ながら既にyominetは消滅し、WebArchiveでしか確認できない。
>★2000年10月31日をもって個人有料会員サービスを終了いたしました。
http://web.archive.org/web/20001206041900/http://www.yominet.ne.jp/
有料サービスとしての営業停止後も、小田原地区限定の地域ネットのような役割を担っていたことが次のURLから伺えるが、それも2005年に更新を停止している。
http://www.yominet.gr.jp/main/help/
読売新聞社という最大手メディアが運営していたにしては、極端に情報が少ない「yominet」。何故このように情報が少ないか?は、次のURLにヒントがあるかもしれない。
http://www.nmda.or.jp/nmda/net96/net96-full.html
以下に一部を抜粋すると。
■1996/6 [単位:千人]
NIFTY-Serve 1,830
BIGLOBE 1,770
ASAHIネット 630
東京BBS 39
YOMINET 15
これはインターネットに移行する前、所謂パソコン通信時代の加入者数ではあるが。
最大手のNIFTYが183万人の加入者であるのに対しyominet1.5万人。約100倍の開きがある。
草の根ネット大手の東京BBSと比較しても半分以下である。
またyominetユーザーの中にも複数のサービスに加入する人もいるし、アクティブに接続するユーザーというのは更に少ないものと考えられ。現在のネット上において情報が極端に少ないのは、端的に言って「ユーザー数が少なかった」からだろうというのが説得力のある推論だろう。
※ユーザー数に読売社員が含まれていたかどうかは確認はできない。
さて北澤浩一さんの「緑色の坂の道」には、
「yominet」を含むエントリーは約30件ある。
北澤さんとyominetの関係を知ることは、今後の検証のためにも有意義と考え、
その中から興味深い箇所を抜粋して引用。
強調は引用者。
長くなったのでまとめます。
May 30, 2004
「緑色の坂の道」vol.2623
皐月尽。
■ yominetは、当時数億円したかという強力なイントラネットの一部で、デフォルトのブラウザはNN、ネットスケープの3.0を想定していた。まだWebオーサリング・ツールというものが市販されておらず、htmlは全て手書きで行なった。
エディタで雛型を作成し、そこに流し込んでゆくのだが、膨大な手間がかかったように記憶している。
ただ問題はその中身であって、今読み返してどれだけ通用するかというと、その何割かには薄い自負がある。
July 21, 2004「緑色の坂の道」vol.2623
サマー。
■ ポロ・シャツを干した。
昔の恋のことを思った。
___________________________________________________
■ 93年の6月頃書いたものだ。
当時、読売のyominetでは、「さまー」と呟くのが流行った。
July 23, 2004「緑色の坂の道」vol.2634
プラネット。
■ 97年の6月。
インターネット化なった頃のyominet に載せていた。
これには画像がついていて、臨海副都心に向かう車の中から、格子状に囲まれたトンネルがこちらに向かってくるのを撮っている。
December 11, 2004「緑色の坂の道」vol.2867
かげろう 2.
■ 古くからの読者はご存知かも知れない。
今やっていることの原型は、ほとんど全て yomine の文芸にあった。
yominet とは、読売新聞社が運営していた有料会員制のインターネットサービスである。私は読売から業務委託を受け、文芸フォーラムの執筆と運営を行っていた。
今、青瓶を仕切っている甘木君は、当時の助手である。
当時はサボってばかりいるイタシカタのない青年であったが、昨今更生して、渋谷NHKのすぐ傍に住んでいる。色物のYシャツと深夜の饂飩さえやめれば、仕事も遊びも一番いい時であろうかと思われる。
yominet はよくAネットと比較されていたのだが、後者は実をいうと某新聞とは関係がない。確か別会社になっていたような記憶がある。
筒井さんの「電脳筒井線」があった故か、Aネットから溢れた文芸趣味の方々が yominet に流れ込んでくることがままあった。壮絶なバトルになることもあったが、適宜駆逐されている。
ふりかえると yominet は、クローズドな世界ではあったが、今インターネットの世界で起きていることの多くはそこで先行体験できたように思えている。
とりわけ、書くことと人間関係に関してである。
December 12, 2004「緑色の坂の道」vol.2869
縦笛。
■ yominet の文芸では、当時若手の現代音楽家何人かに原稿を書いてもらっていた。
ひとりは今もミラノにいる。他の数人は日本にいて、既にして中堅どころと言ってもいい位置で活動している。
年に何回か音楽会の招待状を戴くのだが、デスクの前にピンで留めているにも関わらず、ゆくことができないでいた。
半分は週末の二日酔いのせいである。
December 12, 2004「緑色の坂の道」vol.2870
乾くのは、底が濡れているからだ。
■ 緑坂には、毎日数百人の人が訪れる。
何も書かない日もそこそこ、書いた後の数日はじたじたと数を増やしているようだ。
酔狂ですなあ、旦那。
と言いたい気分も、薄く、ない訳でもない。
■ このコピーは、始めてアドバタイジング・ルックスを試みた一作目に使った。
yominet で、98年頃だったろうか。
写真を配置してその下にコピーを置く。
下部の余白は、様々に広告に転用できるよう配置した。
いわゆる、テンプレート。その後「kitazawa フォーマット」と一部では呼ばれた。
すぐにその画像をお見せできないのが残念であるが、当時アクロバットの3.0が出たばかりで、それをベースにDTPの可能性を試みたのである。
元々私は文章の世界の人間で、コピーはそれまで飽きるほど書いていた。
テキストの緑坂というのは、昼間の厄介で書けないもの、あるいはその引き出しというべきものだったろうか。引き出しの重要性については諸先輩も語っているが、いずれまた書く。
yominet を委託されたとき、これからはインターネットだという。
まだISDNもなく28のモデムで、当然定額制でもない。
ブラウザはネットスケープの3.0が主流。IEはバグだらけだった。
yominet は設計が「光る光る○○」の会社。当時で数億円したインフラだったが、つまりはよくできたCGIなのである。NN(ネットスケープ)だけに対応。
おかげで、HTMLについては手書きで書くようになる。
まだ、Webオーサリングソフトなどというものが製品化される前だったからだ。
December 16, 2004「緑色の坂の道」vol.2887
セブン・ステップス 6.
■ 何か具体的に仕事をするとき、サイトというのは名刺代わりになる。
その目的に応じた作りが必要になってくるものだが、例えば写真を見せるのにMovabletypeでは魅力的にはならないことが多い。
CSSの技もやや同じことで、ベースは膨大なテキストであろうか。
■ かつて、大日本スクリーンと共同で、XMLをベースにしたコンテンツを作ったことがあった。題材は「夜の魚」一部である。
小説そのものを構造化していって、紙にもデジタル上でも閲覧可能な電子書籍を作ろうとしたものだった。
面白いことに、画像を入れてくれと頼まれる。魅力的な画像がないと、商品としてはなかなか厳しいという要請からである。
私はその辺りに、ある種普遍的な意味合いが滲んでいたように思う。
■ 例えばこの文章は、本来であれば「青い瓶の話」の中の文脈である。
かつて yominet の文芸では、作品性の高い短文を緑坂、批評に近いものを青瓶と大別していた。だがそれは、書くフォーラム、「場」の問題であって、厳密に内容から峻別されるものではなかった。
MT(Movabletype)によくあるカテゴリー分け。
これが仔細に行われていることもよくあるが、多分書き手は箱庭を作っているようなものかもしれない。
賢い収納、賢いオクサン。
ひとつの文章が、多面的に分類できたりする場合には、ドウシタラヨカロ。
May 12, 2005「緑色の坂の道」vol.3102
オランダ人の妻。
■ 前回の「夜の魚」には歴史的事実として誤りがある。
厳密には誤りではないが、誤解を招きやすい部分が残る。
実際、旧軍はオランダ人の捕虜を慰安婦として扱ったことがあった。
■ それにしても、こういったデリケートな問題を、10年近く前の読売新聞社 yominetで掲載していたのだから驚く。
今だとすこし書けないかもしれない。
赤軍もその他に関しても、その後大きく時代は動き、今書けばまた違った記載になるのだろうが、そのままにしてある。
June 17, 2005「緑色の坂の道」vol.3158
ブルーラベル 3.
■ 明日の準備をしながらこれを書いている。
かつてyominetの文芸で助手だった甘木君は、短めの随筆を書くのに三時間かかり、親方である私に叱られていた。
そういう彼は、悪口を書かせると膨大に、しかも十五分で仕上げてくる。
それが旨い。適材適所と言うんですかねえ。
■ ひとのことは言えないが。
というのが、当時必ず付随する常套句であった。
これは、昨今の「モナー」に相通じるところもある。
ま、そこは流れで。
August 14, 2005「緑色の坂の道」vol.3259
夏の終わりの作品再掲。
■ を、じたじた試みることにした。
これは99年、読売新聞社主催 yominet、その文芸フォーラムに掲載したものである。
当時私は、フォーラムの執筆・運営を業務委託され、四苦八苦していた覚えがある。
元はA4サイズのPDF。クリックするとダウンロードするようHTMLを書いていた。
■ ま、それがですね、yominetが特殊な環境だったものだから、市販のオーサリングソフトはほとんど使えない。全て手書きである。
勉強になったとも言えるのだが、それはそれで苦労した。
ただ、YahooなどのEC(ネットショップ)の構築を仕事で頼まれることがままあって、その場合の解析に、yominet時代の技が応用できている。
基本原理に相通じるところがあったからだろう。
August 24, 2005「緑色の坂の道」vol.3285
暖簾について。
■ 誰にでも、お世話になったという方々はいて、勿論私も例外ではない。
指折り数えると、どうしようもない。
随分旧聞になるのだが、読売新聞社主催、yominet の責任者であった槲氏(仮名)もその一人である。
いきさつは様々にあるが、大体のところ、一回は喧嘩をする。
あのクソジジィとか言って、ことある毎に突っかっていた。
September 02, 2005「緑色の坂の道」vol.3321
インタラクチブ舌かんで。
■ 「甘く苦い島」などのコンテンツを再構築するため、じたばたしている。
このところ、試みにブログ内部に画像を付与しているのはご存知の通り。
微細なクレジットなどが今のものとは違う、yominet 時代のものである。
当時のjpgをそのまま掲載している訳だが、それが大きすぎるという声をいくつかいただいた。15インチのモニターで眺めると、確かに大きい。ノートPCなどでもそうである。 かといって、それを小さくするということはしない。性格なもので。
■ 何度も書くが、当時はネットスケープが主流であった。IEにはバグが多く、とうてい使い物にならない。イントラはNNを基礎として設計され、今ならば数千億程度のインフラはその10数倍の価格がした。
だからどうした、ということではないのだけれども。
コンテンツの見せ方を、ブログ、つまりMTに特化してゆくのは現実問題として難しいだろうという印象を私は持っている。
とりわけ、画像などの各種作品を見せてゆくにMTは不向きであろうか。
■ 昨年の今頃か、盛んにアクセシビリティとかいう単語が一人歩きした。
SEOの次はこれか、という按配である。
かつて、「インタラクチブ舌かんで」と青瓶で書いたことがあったが、インタラクティブという言葉も、その意味が定かでないまま姿を消した。
つまりは流行ということなのだが、ネットにおける先行者利益というのは、既に幻想ではないかという気がしている。
ブログも怪しい。
September 10, 2005「緑色の坂の道」vol.3360
甘く苦い島、再掲。
■ 別のMTに、「甘く苦い島」のオリジナルを掲載している。
オリジナルとは、A4サイズのPDFで作成されたもので、全てにコピーがついたものを指す。
初出は99年の読売新聞社、yominet.
take1 と記載したものが、後に某プリンターメーカーから作品集としてまとめられたものを指している。全部で40数枚ほどになるだろうか。
もちろん、編集を通過しているので、実際の枚数はもう少し多い。作品集としてまとめるに枚数制限があったためである。
( 中略 )
■ MTという形態がこうした作品をWeb上で展示するにふさわしいものかどうかは知らない。恐らくは不具合もあるだろう。
商業版であるから、かつてはスライスをかけ四分割などして簡単に壁紙などにはできないようにしていたが、昨今、WebのページそのものをPDFにするなど、キャプチャーの技術が一般化しているため、その作業は省いた。
かといって、著作権や使用権等を放棄している訳ではないのでご注意のほど。
東京地裁の喫煙室に出かけるのはカンベンである。下の食堂もさびしい。
こういうものも、英文で書かないと駄目なのかも知れないが。
いずれにせよ、オリジナルを楽しんでいただければ幸いである。
私はへろへろになりながら、タウリンも1000では効かねーよという按配で、作品の編集を続けている。
それにしても、昨夜飲んだ発泡酒の黒い奴は不味かった。
September 13, 2005「緑色の坂の道」vol.3369
pride.
■「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」vol.28
は、ある意味で最も緑坂的な作品である。
読売新聞社 yominet に掲載した際、かなりの評判をとった。
評判とはつまり、この作品がいいという声が思わぬところから聞こえてきた、という意味である。
かつて、アゴスト「アート&デザイン」という質の高いデザイン誌があった。
その012号に「甘く苦い島」は特集されている。本作はその中でもやや大きく使われていた。
表紙が横尾忠則さん。その次が松永真さん。
その暫く後だったから、今考えるともっと喜んでいい話で、どうもその辺り私は鈍いところがあるようだった。
■ HDDの中から、かつて書いた青瓶の一部を転載してみる。昨夜遅く、若いものから電話がかかってきた。
PDFを見たという。私はくたばって最後の一杯を嘗めるべきか逡巡していたところだった。
「どうしてこれが、pride なんですか」
「どうしてって言われても、そういうことなんだよ」
NYの、これはどこだったろうか。地名を忘れている。
向こうからひとりの熟年が歩いてきて、彼は帽子を被っていた。
私はほとんどノーファインダーでたった一枚だけを撮った。
この時はFD28ミリだったと思う。結果的に壁そのものにピントが合っている。
(青瓶 2213 99年)
September 21, 2005「緑色の坂の道」vol.3387
そう旨くはゆかないよ。
■ 漱石の小さな作品に、小さな娘と会話するところがあった。
「どうして井戸の中には水があるの」
「地面の下に水が流れているからだよ」
「じゃあ、どうして地面は落っこちちゃわないの」
「うん、そう旨くはゆかないよ」
原文はどうなっていたのか本来は確かめるべきなんだろうが、億劫なのでやめる。
それにしても、「そう旨くはゆかないよ」という台詞には、なかなか味がある。
ここら辺の、何処か投げやりな気配ってのは、そう悪くはない。
深夜、ちびちび酒を嘗めながら、独りディスプレイを眺めている大人の貴方には、説明せんでもいいとおもう。
○昔坂 vol.4 93年4月
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■ この緑坂は3065でも使った。
ま、いいんですけれども、何がいいたいかというと、昨今の、先へ先へと進もうとする新自由主義者ごっこの若い奴ってのは、暑苦しいなァということである。
ここで全然関係ないが、青瓶を書き写してみる。これは97年くらいか。
初出:読売新聞社 yominet.
ネットワークの自由。
■ すこし大風呂敷を広げた題名だが、さておき。
例のオウム事件の頃である。国家のなかに仮想的な国家をつくり、様々な各省庁を置いたことを評価する動きが一部知識人の間にあった。
国家権力というものを相対化したという趣旨であろうか。
全共闘とオウムとの相関関係を論じる書籍も出されていた。
私は今まで、「オウム」という単語をほとんど使ってこなかった。
「某宗教団体」とか「新・新宗教」という言い方をしている。
今回その固有名詞を使ってみたのは、現実から逃避する時代がそろそろ終わりつつある、という文学上での流れも生まれてきているように思うからだ。ただ、そのゆくえについてはまだ未知数であろう。サルトルの眼鏡なんかを思い出したりもする。
さらに、事件から二年が経過し、破防法など社会的な影響についても一定部分で収まってきたように認識しているからでもある。
■ 当時、オウムに対して部分的ではあったにせよ肯定的な見方をしていた知識人の一部は、ややあってサイバースペースでの自由ということを唱え始めた。インターネットにおける自由な情報発信と交信が、国家や民族、組織の壁を乗り越えるというある種の期待、場合によっては幻想である。
そうした雑誌を手にとってみると、彼等がオウムからインターネットに乗り換えたのではないかというような印象を薄く持った。活字が小さく、難解な言い回しなので雑誌は買わなかった。
一面においてはそうした特性は世の中を変革してゆくだろう。人々の意識も社会構造も変わることになる。
ただ、そう旨くはゆかないよ。鵺のようにかたちをかえ皆飲み込むようにしてずるずると移行してゆくものだよ、という気が私にはする。
November 10, 2005「緑色の坂の道」vol.3478
羊たちを見張っていると。
■ ようやく表ページのデザインを変えた。
とはいっても「青い瓶の話」を外して緑坂に差し替えただけである。
昨日、薄い風邪が身体に入って、アレルギーの薬を飲んでから眠った。
そのせいか、半日頭がぼんやりしている。
■ 緑坂は1993年の3月に始まっている。
読売新聞社主催、yominet が始まりである。当時は会員数1万人ほどのパソコン通信であった。
一月ほど経った辺りか、緑坂が20ばかり溜まった頃合い、「文芸ボード」というものが新設される。緑坂はその看板として扱われるかたちになった。コンテンツなどという単語はまだない。
当時私はまだ若造で、部署の管理者に、事あるごとに突っかかっていた覚えがある。
いわく「上等じゃねーか」モード。
その方とは、その後随分のお付き合いになるのだが、ひとことで言えばなかなかの侍であった。英国紳士の風貌をされてはいるが、根は骨っぽい。
部署は違うものの、その方を先輩と敬する記者が何人もいることに気がつく。
新社になってからの公論の、上の立場の方なども、若い頃鍛えてもらったのだと言われていた。
ネット上に非常に情報が少ない、「yominet」ではあるが。
北澤さんのブログを読むことで、幾分か立体的に理解できるのでは無いだろうか。