オウムについて語る北澤浩一さん

有名ブロガーに嫌がらせ行為を繰り返していたことで有名な、黒崎夜話の黒崎さん。
彼がオウムについて語るのは別に不思議なことではないけれど。


黒崎さんに強い影響*1をあたえたコピーライターの北澤浩一さんが、
オウムについて語っていたとしたら、なんだか興味深いと思わないかい?
ま、私は別に思わないけどね。なーんて♪


と、誰が興味をもつかサッパリわかんないけど、
北澤浩一さんのブログから、オウム&カルトの単語で検索してみたよ!
つーことで引用してみる。強調はwakame1977.

March 18, 2006
「緑色の坂の道」vol.3686


       夜の海で。

 
■ また、短い旅に出ていた。
 重くてすこし密度がある。
 48時間ばかり続けて座っていると、こんどは尻のあたりが不調になる。
 途中いくつか仮想のバトルを眺めていた。
 すると実は相手が屈指のカルトであるということが分かってくる。
 騙されたり騙したり、他人を操作する術は一定部分で成功したが、
 それがあまりに性急なので、知らずに糸がほころんでくる。


■ 一体に、緻密な計算というものは、そのひとつの前提が崩れると後が続かないものである。
 旧日本軍の参謀には、そうしたタイプの男がいたと何処かで読んだことがある。
 筋書が狂うのはたいてい中心にいる女からで、今まで重要な役を果たしていたものが突然裏返る。
 彼女にとっては自然な流れなのだが、その自然さが理解できない。

February 14, 2006
「緑色の坂の道」vol.3639


       ロッキード、オウム、ライブドア


■ こう並べてゆくと、何処と何処が似ていて、またその構造が違っているのかが薄く分かったような気になってゆく。
 例えば「無罪推定」という論を張った人たちがオウム・地下鉄サリン事件の時にもいたが、
 そのことごとくは論破されていた。
 今ネットでその記録の一部は読むことができる。
 確かロッキード事件の際も同じだった。阿諛する。
 先日私は「夜と女と毛沢東」(吉本隆明辺見庸:文春文庫)という本を、壊れかけたソファの上でめくっていたのだが、
 なんだかとても困った印象が残ったことを覚えている。飲む酒がなくなって、安いフランス製のグラスにラムを入れて嘗めていた。


■ ライブドア的な心性というのが、私は世の中に蔓延していると思っている。
 それは、例えばゲームの裏技を知っているともてはやされる小学生の世界にも似ていて、何処かに現実味がない。
 カルト経済の一変形だということもできるが、背後にはグローバリズムという時には大きな暴力を伴う世界の構造があって、
 ゆきつもどりつしながら歴史は動いているように思える。

January 22, 2006
「緑色の坂の道」vol.3605


       ドリームランド 5.

 
■ 2005年の3月、私は「ドリームランド」という題の緑坂を書いた。
オウム」というキーワードで、本ブログで検索していただきたい。
 その前後である。あるいは緑坂 3048.
 

■「政治的宗教」あるいは「カルト的経済」。
 いくつもの単語で今の世界は語ることができる。単語というのは概念を圧縮したものだが、その背後に幾層にもたたまれた構造があることに注意しなければならない。
 薄い予感のようなものがあって、このところ私は、立花隆さんの田中角栄のシリーズを壊れかけたソファの上で読み返していた。
 金権体質というのがこの国に伝統的にあるのだとして、本件もその延長線上にあるものだという気がしている。

January 11, 2006
「緑色の坂の道」vol.3592


       手を伸ばしたら湿っていた闇。


■ 私は風邪がうつり、連休には熱を出していた。
 仕上げねばならない仕事がひとつふたつあって、明け方もそもそと資料をめくる。
 つまんねえなあこんなこと。
 でもこれを片付けないとなにがしか、片がつかない。
 赤いラベルの酒を嘗め、それをタウリンで割っていた。


■ どうでもいいことではあるのだが、ITの会社やネットの世界の一部には、
 カルト的な空気が薄く漂っているかのように思えることがあった。
 カルトとは何か、というと前に書いた緑坂があるので検索していただきたい。
 簡単に言えば、非合理的なカリスマや絶対的な存在を求める心理的な状態である。
 つまり、疑い続けることができないでいる。

September 21, 2005
「緑色の坂の道」vol.3387


        ネットワークの自由。


■ すこし大風呂敷を広げた題名だが、さておき。
 例のオウム事件の頃である。国家のなかに仮想的な国家をつくり、
 様々な各省庁を置いたことを評価する動きが一部知識人の間にあった。
 国家権力というものを相対化したという趣旨であろうか。
 全共闘とオウムとの相関関係を論じる書籍も出されていた。
 私は今まで、「オウム」という単語をほとんど使ってこなかった。
「某宗教団体」とか「新・新宗教」という言い方をしている。
 今回その固有名詞を使ってみたのは、現実から逃避する時代がそろそろ終わりつつある、
 という文学上での流れも生まれてきているように思うからだ。ただ、そのゆくえについてはまだ未知数であろう。
 サルトルの眼鏡なんかを思い出したりもする。
 さらに、事件から二年が経過し、破防法など社会的な影響についても一定部分で収まってきたように認識しているからでもある。


■ 当時、オウムに対して部分的ではあったにせよ肯定的な見方をしていた知識人の一部は、
 ややあってサイバースペースでの自由ということを唱え始めた。
 インターネットにおける自由な情報発信と交信が、国家や民族、組織の壁を乗り越えるというある種の期待、
 場合によっては幻想である。
 そうした雑誌を手にとってみると、彼等がオウムからインターネットに乗り換えたのではないかというような印象を薄く持った。
 活字が小さく、難解な言い回しなので雑誌は買わなかった。
 一面においてはそうした特性は世の中を変革してゆくだろう。人々の意識も社会構造も変わることになる。
 ただ、そう旨くはゆかないよ。鵺のようにかたちをかえ皆飲み込むようにしてずるずると移行してゆくものだよ、
 という気が私にはする。

March 11, 2005
「緑色の坂の道」vol.3046

 
       ドリームランド 2.

 
■ 漠然とした予感なのだが、今、ある種経済的な茶番のように起きていることは、私にはオウム以後
 この国が至ったひとつの段階ではないかという気がしている。
 ある要素が拡散し、違う側面から社会の表面に滲んできたと言ってもいい。
 新しい玩具を与えられた子供が、これでこんなこともできると喜ぶ。
 流れるように自説を語り、技術が万能であるかのように錯覚しているのだが、
 ネットあるいは特定の経済原則からしか社会や人間を眺めることができない。
 空想的な技術万能主義とは、終末論の裏返しでしかないだろう。
 だが、技術というのは基本的に万人に開かれたものであって、特定の個人でなくても誰かが行うことは可能である。
 いずれそのアイディアは、保守的といわれている大人たちが実装してゆく。これが資本主義の鉄則だからである。


■ メディア論というのは、つまるところ世界をどう眺めているかという視座の問題である。
 メディアだけが単独に存在する訳ではなく、その国の経済的な側面や文化・歴史などに大きく規定されている訳だが、
 分かりやすい例を挙げれば、IT革命と呼ばれているものの成果は、
 グローバリズムの道具にもなればそれに相対する動きに使われることもあって、その意味では等価である。
 つまり、インフラのひとつなのだ。

 
■ 説明するのは厄介なので止めるが「空白の10年」の後、もうひとつ駒が進む。
 能力はあっても正規の雇用になれない男や女たちが溢れ、経済の流動弁として機能して久しい。
 「フリーター漂流」という番組が国営放送であったけれども、その制作に関わった誰かも、
 おそらくは似たような立場だったのだろうと思われる。
 フリーターも個人資産あれこれのひとも、この時代には「市民」と呼ばれる。
 ネットの匿名性と平等はその差異を極限まで隠蔽してしまう。
 何時だったか私は、リストラをされた知人の家にいった。
 半年も掃除をしていない黒ずんだトイレの棚に、今は別居中だという家族の残した生理用品があった。
 PCを眺めると、娘さんのアカウントが残っている。高校生の息子と釣りにいった時の写真が何枚か壁に飾ってあった。
 このテーブルは、かつて家族が食事をしたところなのかと思うのだが、その上でUSBのケーブルを繋いだりして、
 インスタント・コーヒーのおかわりをした。

March 08, 2005
「緑色の坂の道」vol.3045

 
       ドリームランド。

 
■「夜の魚」一部を書いているとき、地下鉄サリン事件というのはまだ起きていなかった。
 予兆のようなものはあって、これからは新興宗教、あるいは新・新宗教の時代が来るだろうと感じていた。
 「夜の魚」の中で、狐のような中国女に撃たれた主人公が匿われるのが、その団体が経営する病院である。
 
 高橋和巳に「邪宗門」という小説がある。戦前ある新興宗教が、結局は軍部や政府に弾圧されてゆく過程を描いたものである。
 モデルは大本教だと言われるが、今ではこの小説を知るひとも少ない。
 反体制、革命のある種シンボルであるとして、オウム真理教を心情的に擁護した知識人は多い。
 社会的な生命を絶たれたひとも数人はいた。
 彼らは自らの叶わぬ夢を新しい世代に仮託しただけであって、パレスチナに憧れたかつての闘士の発想と寸分違わないでいた。
 あるいは精神世界の中で遊ぶ。


■ カルトの定義は様々にあるが、
 私は根っこのところに極めて強い自己愛があるのではないかという気がしている。
 となると、ネットの世界に非常になじみやすい。
 多くのブログないしは日記のようなものは、自己愛の増殖と連鎖である。
 厳しい評価を避け、昼間とは別の人間になろうとする。
 自らの顔写真や、小物類などを撮影して載せる。
 ある特定の人物がいたとして、そこに憧れ、今にも手が届くのではないかと錯覚させることがネットの匿名性と平等であるのかも知れない。
 そこを逆手にとって商売に繋げてゆくやり方もあり、私は否定するものではないが、そこに集まる彼らは、
 何処かで搾取されていることを知らないでいる。かといって被害者であるとは限らない。
 私は最近の若者や三十代の男たちが、タバコの吸い方を知らないことに驚く。
 火の点いたものを振り回したり、持ったまま椅子やテーブルの傍に手を置く。
 これは何故なのかと考えると、他人に対する想像力が乏しいのである。
 これは自分にとっても他人にとっても毒なのだという自覚だろうか。
 煙草や酒は、毒であるから大人の嗜好品なのだ。
 もちろん、何かモノを書くということもである。


引用してみたけど。大して面白いことは書いてなかったね。
期待させちゃってメンゴ。


ドウシタラヨカトピア